2007年02月
2007年02月20日
開戦から1430日 イラクは戦争・内戦
2月20日 JR和歌山駅前 街宣チラシ配布
現在イラク人死者65万人、米軍死者3400
チグリス川を境に、東はシーア派、西はスンニ派に分断居住
何時も犠牲になるのは、一般市民と特に女性と子供である。
イラク開戦の首謀者 チェイニー米副大統領来日
丁重にお断りしろ!イラクへの空自(C‐130輸送機)支援
イラク特措法2年延長を中止に
イラク増派に反対! 速やかに撤退を!
チェイニー副大統領が来日し、安倍首相や麻生外相らと会談する。副大統領は、ブッシュ政権の強硬外交路線を推進してきたネオコングループの中心人物で、イラク戦争の仕掛け人であり、その後の統治政策を主導してきた。今回のチェイニー副大統領の来日目的は、米国の米兵2万2千人の増派を決めた新イラク政策と今後のアフガニスタン問題などへの理解を得る為である。
米国内では、内戦状態に陥ったイラク政策への批判が高まり、与党・共和党が中間選挙で大敗した。結果、イラク戦争の指揮を執ったラムズフェルド国防長官、ボルトン国連大使等が更迭された。国外でも、イタリア、スペイン両国の政権はすでに選挙で敗れ、盟友である英国のブレア首相も支持率が著しく低下、失脚を余儀なくされている。親米「有志連合」が崩壊するなか、現在、新イラク政策を支持するのは、日本とオーストラリアぐらいである。従って、今回、副大統領は3年前と違って日本とオーストラリアだけを訪問する。両国との同盟関係重視を強調し、結束をより強固にしようとの狙いがうかがえる。
日本にとっては、先月の久間防衛相(米国のイラク開戦は間違っている)、麻生外務大臣(戦後処理がドグサイ)発言に象徴されるように、イラク問題は懸案事項であるが、北朝鮮の核開発と拉致問題の解決には米国の庇護の下でしか機能しないこともあり、さらなる同盟関係は欠かせないと考えているが。しかし、この状態の延長は日本が奈落の底へとひた走ることだ。一刻も早く他国に見習い、本来の外交関係に軌道修正しなければならない。既に遅きに失する。
10日、政府はイラク復興支援特別措置法を2年延長する改正案を国会に提出すると発表した。米国の新イラク政策に盲従の安倍内閣は最大の援助を継続する判断を下した。日本政府の米国追従政策もここまでくれば世界の笑われ者になるしかない。各国はイラクの事態を冷静に判断してイラク政策を根本から修正軌道している。
当初から反対していたロシアのプーチン大統領も10日安全保障国際会議で、「米国がテロとの戦いで世界を危険に陥れ、民主主義を破壊している。単独主義は紛争の解決につながらず、むしろ悪化させている。米国の軍拡は他国の核兵器開発を促す結果を招いている」とブッシュ政権を激しく批判している。
日本は米国頼みの孤立国家に膠着してしまった。イラクの内戦は陸上自衛隊が昨年の7月にサマワから完全撤退した時と全く状況が違っている。当初から違憲かつ国際法的に逸脱した特措法であったが、現況は政府がこの特措法を最大限に解釈してもその法的根拠はどこにも見当たらないのが現実である。特措法を盾にとって、唯一主張、講釈を述べるとすると、それは、空自C−130輸送機が撃墜されないことの現実(非戦闘地域の根拠)だけである。
しかし、この根拠も、過去3週間で計6機のヘリが墜落、28人が死亡している現実から、米軍は武装勢力が新型の携行型地対空ミサイルを購入し「米軍ヘリとの戦いの質が変わった」と発表するに至っている。従って、政府がイラクでの航空自衛隊の活動が殆ど真っ黒に塗り潰した報告書しか出せない状況は、C−130輸送機がこれから何時撃墜されても不思議ではないということだ。詰まり「イラク復興支援特別措置法」は破綻している。政府との認識の違いは、撃墜されて自衛隊員が死亡して破綻と見なすのかの判断だけである。 07・02・20「平和の声」
現在イラク人死者65万人、米軍死者3400
チグリス川を境に、東はシーア派、西はスンニ派に分断居住
何時も犠牲になるのは、一般市民と特に女性と子供である。
イラク開戦の首謀者 チェイニー米副大統領来日
丁重にお断りしろ!イラクへの空自(C‐130輸送機)支援
イラク特措法2年延長を中止に
イラク増派に反対! 速やかに撤退を!
チェイニー副大統領が来日し、安倍首相や麻生外相らと会談する。副大統領は、ブッシュ政権の強硬外交路線を推進してきたネオコングループの中心人物で、イラク戦争の仕掛け人であり、その後の統治政策を主導してきた。今回のチェイニー副大統領の来日目的は、米国の米兵2万2千人の増派を決めた新イラク政策と今後のアフガニスタン問題などへの理解を得る為である。
米国内では、内戦状態に陥ったイラク政策への批判が高まり、与党・共和党が中間選挙で大敗した。結果、イラク戦争の指揮を執ったラムズフェルド国防長官、ボルトン国連大使等が更迭された。国外でも、イタリア、スペイン両国の政権はすでに選挙で敗れ、盟友である英国のブレア首相も支持率が著しく低下、失脚を余儀なくされている。親米「有志連合」が崩壊するなか、現在、新イラク政策を支持するのは、日本とオーストラリアぐらいである。従って、今回、副大統領は3年前と違って日本とオーストラリアだけを訪問する。両国との同盟関係重視を強調し、結束をより強固にしようとの狙いがうかがえる。
日本にとっては、先月の久間防衛相(米国のイラク開戦は間違っている)、麻生外務大臣(戦後処理がドグサイ)発言に象徴されるように、イラク問題は懸案事項であるが、北朝鮮の核開発と拉致問題の解決には米国の庇護の下でしか機能しないこともあり、さらなる同盟関係は欠かせないと考えているが。しかし、この状態の延長は日本が奈落の底へとひた走ることだ。一刻も早く他国に見習い、本来の外交関係に軌道修正しなければならない。既に遅きに失する。
10日、政府はイラク復興支援特別措置法を2年延長する改正案を国会に提出すると発表した。米国の新イラク政策に盲従の安倍内閣は最大の援助を継続する判断を下した。日本政府の米国追従政策もここまでくれば世界の笑われ者になるしかない。各国はイラクの事態を冷静に判断してイラク政策を根本から修正軌道している。
当初から反対していたロシアのプーチン大統領も10日安全保障国際会議で、「米国がテロとの戦いで世界を危険に陥れ、民主主義を破壊している。単独主義は紛争の解決につながらず、むしろ悪化させている。米国の軍拡は他国の核兵器開発を促す結果を招いている」とブッシュ政権を激しく批判している。
日本は米国頼みの孤立国家に膠着してしまった。イラクの内戦は陸上自衛隊が昨年の7月にサマワから完全撤退した時と全く状況が違っている。当初から違憲かつ国際法的に逸脱した特措法であったが、現況は政府がこの特措法を最大限に解釈してもその法的根拠はどこにも見当たらないのが現実である。特措法を盾にとって、唯一主張、講釈を述べるとすると、それは、空自C−130輸送機が撃墜されないことの現実(非戦闘地域の根拠)だけである。
しかし、この根拠も、過去3週間で計6機のヘリが墜落、28人が死亡している現実から、米軍は武装勢力が新型の携行型地対空ミサイルを購入し「米軍ヘリとの戦いの質が変わった」と発表するに至っている。従って、政府がイラクでの航空自衛隊の活動が殆ど真っ黒に塗り潰した報告書しか出せない状況は、C−130輸送機がこれから何時撃墜されても不思議ではないということだ。詰まり「イラク復興支援特別措置法」は破綻している。政府との認識の違いは、撃墜されて自衛隊員が死亡して破綻と見なすのかの判断だけである。 07・02・20「平和の声」
2007年02月12日
焼身自殺
静岡県庁横で男性の焼身死体 知事と静岡市長へ抗議ビラ
あまりマスコミ、社会面で取り上げられていないが、住民運動を担ってきたと自負する私には、衝撃的な出来事だった。多くの方が抗議自殺を考える訳だが、それは考えであって実施不可能な展開で、何時も気持ちのフレームを表す一瞬の思いにあるというのが大方の見方だ。
しかし、現実になった今回の抗議焼身自殺はその意味で衝撃だった。そして、遺書を読んで強く同感した。それは、住民運動における勝敗に拘る姿勢だ。私はこれまで多くの住民運動に参加したが、先ず、関わると同時に勝つか負けるかを一番に考えた。そして、敗北の運動展開であればどのような展開が望ましいかを探りながら、状況が一転する、突破の逆転戦略を考えるのが常道だった。しかし、そうそう簡単明瞭に事が展開されることはない。行政と住民団体の認識の違いと同じぐらい、住民運動に携わる住民間の温度差が常に目標よりも大きく個人の眼前に立ちはだかる経緯はごく普通の特筆すべきことではないのが現実である。従って、この現実との個々人の格闘が運動の始まりと言っても過言ではない。
遺書の一部に下記文言がある。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
悲しい事ではあるけれど。空港反対の活動は、明らかに敗北なのだ。
なぜなら、このままでは出来てしまうからだ。これを敗北と言わずして何であろう。
しかしいまだに敗北を認めない人々、そしてその原因を考えようとしない人々。
敗北の原因は、自分たちが正義だと思っていたからなのだ。
それを許してはならない。まだ遅くない。人々が本気で抗議すれば、こんな間違った空港が出来るはずが無い。
正気の詩
正気なのに、狂気の選択をするのは、つらいです。
毎日、自分を追い詰めています。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ずばり運動の核心を確実に言い当てている。
反対、阻止運動を担ってきた者にとっては、敗北は耐えがたきものである。まさに温度差の問題でも有る訳だが、敗北を受け入れるにもその担ってきた過程と同じ時間を要する悲しみがついてまわるものだ。敗北を受け入れることを追い詰めてしまうと、反って出口を塞いでしまう結果になる。
いろんな課題を集約する言葉に「本気」という精神状態がある。しかし、「本気」は個々人そうあると思い運動を担っているものだ。だから、「本気」を解釈することは、難解極まりない精神状況そのものに意味を与えつつ感触するしかないものだと考え、其処を我が身の隠れ蓑に一瞬おくことをよしとしてきた。しかし、現実の抗議焼身自殺を目の当たりに知ることで、今後はそうもいかなくなった思いに封じ込められそうだ。
ご冥福を祈るばかり。
あまりマスコミ、社会面で取り上げられていないが、住民運動を担ってきたと自負する私には、衝撃的な出来事だった。多くの方が抗議自殺を考える訳だが、それは考えであって実施不可能な展開で、何時も気持ちのフレームを表す一瞬の思いにあるというのが大方の見方だ。
しかし、現実になった今回の抗議焼身自殺はその意味で衝撃だった。そして、遺書を読んで強く同感した。それは、住民運動における勝敗に拘る姿勢だ。私はこれまで多くの住民運動に参加したが、先ず、関わると同時に勝つか負けるかを一番に考えた。そして、敗北の運動展開であればどのような展開が望ましいかを探りながら、状況が一転する、突破の逆転戦略を考えるのが常道だった。しかし、そうそう簡単明瞭に事が展開されることはない。行政と住民団体の認識の違いと同じぐらい、住民運動に携わる住民間の温度差が常に目標よりも大きく個人の眼前に立ちはだかる経緯はごく普通の特筆すべきことではないのが現実である。従って、この現実との個々人の格闘が運動の始まりと言っても過言ではない。
遺書の一部に下記文言がある。
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悲しい事ではあるけれど。空港反対の活動は、明らかに敗北なのだ。
なぜなら、このままでは出来てしまうからだ。これを敗北と言わずして何であろう。
しかしいまだに敗北を認めない人々、そしてその原因を考えようとしない人々。
敗北の原因は、自分たちが正義だと思っていたからなのだ。
それを許してはならない。まだ遅くない。人々が本気で抗議すれば、こんな間違った空港が出来るはずが無い。
正気の詩
正気なのに、狂気の選択をするのは、つらいです。
毎日、自分を追い詰めています。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ずばり運動の核心を確実に言い当てている。
反対、阻止運動を担ってきた者にとっては、敗北は耐えがたきものである。まさに温度差の問題でも有る訳だが、敗北を受け入れるにもその担ってきた過程と同じ時間を要する悲しみがついてまわるものだ。敗北を受け入れることを追い詰めてしまうと、反って出口を塞いでしまう結果になる。
いろんな課題を集約する言葉に「本気」という精神状態がある。しかし、「本気」は個々人そうあると思い運動を担っているものだ。だから、「本気」を解釈することは、難解極まりない精神状況そのものに意味を与えつつ感触するしかないものだと考え、其処を我が身の隠れ蓑に一瞬おくことをよしとしてきた。しかし、現実の抗議焼身自殺を目の当たりに知ることで、今後はそうもいかなくなった思いに封じ込められそうだ。
ご冥福を祈るばかり。
「人権とメディア」について
中嶋啓明 様
「週刊・金曜日」1月26日号、中嶋啓明氏が「人権とメディア」の欄で、昨年の「11・19緊急市民集会」を巡って「編集部」の対応について見解を述べている。そこで一読者として、中嶋氏の見解について若干思うところがあり意見を述べさせて頂く。
中嶋氏の論調は極めて正当な人権と侵害についての認識を述べているものと考える。その論調から、「編集部」に対して「よく見られる無責任で不誠実な、日本的おわびのあり方を思い出す」と手厳しく批判しているのは、尤もな言及だと私も同感する。しかし、手厳しい批判の中嶋氏ではあるが、今後、徹底批判をもって努力すると表明しているその表明には、言葉の運動性がもつ本来備わっている格闘するスタイルが見えない尻しぼみの言説で終わっているのが気がかりである。
中嶋氏は言論人として人権とメディアを考察する立場で『金曜日』と『新潮』両者のその有様を批判している。その姿勢は尊重される。しかし、それであるならば、不甲斐無いと考えられる「おわび」をよしとして「その実現のために努力していく」という事務処理的言葉に相乗りする姿勢は、いかにも90年以降の有事法制物語の現代風左翼運動の典型ではないだろうか。
何度となく「その実現のために努力していく」、「頑張ろう」のお経を唱えてきて今日の体たらくさを露呈してきた事実に対して、私達はもっと真摯な敗北的見解に基づき今後の運動に位置しなければならないと考えたならば、もう少し恥じらいの言葉、秘めた怒りを感じさせる格闘スタイルの決意表明と、遅まきながらの何らかの対策を予見させる言い回しがあってもよかったと考える。
槍玉に挙げている『新潮』は、右派だが今日まで数々の問題ある問題提議を展開して、それなりに社会、言論界の批判に対して受けて立つという格闘の姿勢を表明してきている。メディアは倫理かの次元以前の最前線においての問題提議は、盗人にも三分の利である。言論の格闘とはこの三分の利を如何に精査するかによって、ことの本質に言及できるかの過程を持続させるかということである。この見解に立てば残念ながら『金曜日・編集部』はこの過程を放棄していると言わざるを得ない。然らば、中嶋氏のこれに相乗りする姿勢に対しては、謙虚に受け入れることが出来ないというのが私の吐露するところだ。
一般的冷静さで考えて、『新潮』のメディアに対する暴力的煽動こそ糾弾に値する。『新潮』の記事を書いた記者は、言葉は暴力の運動性を担っていることを理解できていないと思われる。しかし、よく考えれば過去の経緯から、「新潮編集部」がこの暴力性を利用していると考えた方が妥当だろう。
何れにせよ、『新潮』への例えば「公開質問状」といったかたちでの抗議が出されなかったことが残念である。
兎に角、『金曜日』ならびに中嶋氏は言葉の運動性からくる運動の過程がやや理解不足の嫌いがないか。中嶋氏の冒頭にある、「少々時機を逸したかもしれないが、やはり一言書いておかなければと思う。」とあるが、少々どころか全く時機を逸している。時機を逸したことが敗北なので、風化させない為に書いておくでは運動のスタイルにはならない。少なくとも私達は歴史を検証しているのではないということであって、言論、表現の自由、民主主義の成熟を勝ち取る為に切磋琢磨しているという現実を一瞬忘れることに甘んじてはならないということだ。
尤も、週刊誌『金曜日』のもつ限界性、市民運動情報誌と定義してしまえば話は別である。たまたま、常に出てくる勇ましい言説についつい一部の読者が、言論による変改幻想を抱くところに錯覚という自己慰安の落とし穴があっての批判につながっているのかも知れない。
今回の意見は私自身に対する戒めも含めて述べさせて頂いた、悪しからず。
岩畑政行
「週刊・金曜日」1月26日号、中嶋啓明氏が「人権とメディア」の欄で、昨年の「11・19緊急市民集会」を巡って「編集部」の対応について見解を述べている。そこで一読者として、中嶋氏の見解について若干思うところがあり意見を述べさせて頂く。
中嶋氏の論調は極めて正当な人権と侵害についての認識を述べているものと考える。その論調から、「編集部」に対して「よく見られる無責任で不誠実な、日本的おわびのあり方を思い出す」と手厳しく批判しているのは、尤もな言及だと私も同感する。しかし、手厳しい批判の中嶋氏ではあるが、今後、徹底批判をもって努力すると表明しているその表明には、言葉の運動性がもつ本来備わっている格闘するスタイルが見えない尻しぼみの言説で終わっているのが気がかりである。
中嶋氏は言論人として人権とメディアを考察する立場で『金曜日』と『新潮』両者のその有様を批判している。その姿勢は尊重される。しかし、それであるならば、不甲斐無いと考えられる「おわび」をよしとして「その実現のために努力していく」という事務処理的言葉に相乗りする姿勢は、いかにも90年以降の有事法制物語の現代風左翼運動の典型ではないだろうか。
何度となく「その実現のために努力していく」、「頑張ろう」のお経を唱えてきて今日の体たらくさを露呈してきた事実に対して、私達はもっと真摯な敗北的見解に基づき今後の運動に位置しなければならないと考えたならば、もう少し恥じらいの言葉、秘めた怒りを感じさせる格闘スタイルの決意表明と、遅まきながらの何らかの対策を予見させる言い回しがあってもよかったと考える。
槍玉に挙げている『新潮』は、右派だが今日まで数々の問題ある問題提議を展開して、それなりに社会、言論界の批判に対して受けて立つという格闘の姿勢を表明してきている。メディアは倫理かの次元以前の最前線においての問題提議は、盗人にも三分の利である。言論の格闘とはこの三分の利を如何に精査するかによって、ことの本質に言及できるかの過程を持続させるかということである。この見解に立てば残念ながら『金曜日・編集部』はこの過程を放棄していると言わざるを得ない。然らば、中嶋氏のこれに相乗りする姿勢に対しては、謙虚に受け入れることが出来ないというのが私の吐露するところだ。
一般的冷静さで考えて、『新潮』のメディアに対する暴力的煽動こそ糾弾に値する。『新潮』の記事を書いた記者は、言葉は暴力の運動性を担っていることを理解できていないと思われる。しかし、よく考えれば過去の経緯から、「新潮編集部」がこの暴力性を利用していると考えた方が妥当だろう。
何れにせよ、『新潮』への例えば「公開質問状」といったかたちでの抗議が出されなかったことが残念である。
兎に角、『金曜日』ならびに中嶋氏は言葉の運動性からくる運動の過程がやや理解不足の嫌いがないか。中嶋氏の冒頭にある、「少々時機を逸したかもしれないが、やはり一言書いておかなければと思う。」とあるが、少々どころか全く時機を逸している。時機を逸したことが敗北なので、風化させない為に書いておくでは運動のスタイルにはならない。少なくとも私達は歴史を検証しているのではないということであって、言論、表現の自由、民主主義の成熟を勝ち取る為に切磋琢磨しているという現実を一瞬忘れることに甘んじてはならないということだ。
尤も、週刊誌『金曜日』のもつ限界性、市民運動情報誌と定義してしまえば話は別である。たまたま、常に出てくる勇ましい言説についつい一部の読者が、言論による変改幻想を抱くところに錯覚という自己慰安の落とし穴があっての批判につながっているのかも知れない。
今回の意見は私自身に対する戒めも含めて述べさせて頂いた、悪しからず。
岩畑政行